ぽつりぽつりと夜道を歩く
二年前まで札幌に住んでいた。現在は花巻に住んでいる。札幌に住んでいたころは一日のなかで黄昏時がもっとも好きだったけれど、花巻に住むようになってからは夜がもっとも好きになった。
花巻、という土地は岩手県の真ん中よりやや南にある、有り体に言えばどのつく田舎だ。田舎の夜というのは本物の闇である。駅前や商業施設の周辺などは多少明るいが、わたしが住んでいる地域は街灯もそれほど多くない。そのぶん天上に輝く月は都市部で見るそれよりもはるかに存在感があるし、月明かりの弱い夜には暗い星までよく見えるため、季節の星座をじっくり楽しむことができる。もちろん安全面には十二分に配慮する必要があるけれど、何か考え事をしたいとき、あるいはその逆で頭を空っぽにしたいとき、わたしはたびたび夜の散歩に出かけている。
夜の散歩というと、札幌に住んでいたころは公園に向かうことが多かった。札幌には大小の公園が数多くある。しかもけっして画一的ではなくて、どの公園にもしっかり個性があるから面白い。わたしのお気に入りは「北26条さくら公園」というところで、論文執筆に行き詰まっていた大学院生時代、よくジャージにサンダルといういでたちでぶらんこを漕ぎに行っていた(今思えばかなり不審な人物に見えていたかもしれない)。一方、花巻(の、わたしが住んでいる地域)には徒歩圏内にわかりやすい目的地のようなものがない。だからいつも「とりあえず体力が尽きるまで歩く」ということにして、ぽつりぽつりと街灯のある道をひたすら歩いている。
やわらかな亡霊となって

不思議なもので、灯りもそれほどなく他人もいない暗闇のなかを歩きつづけていると、しだいに誰にも感知されないやわらかな亡霊となって街を漂っているような心地になってくる。闇のなかを闇に向かって歩けば歩くほど、たましいは小さく軽くなり、からだは透けて夜そのものに無限に近づいていけるような。懐かしく匂う夜風で肺をいっぱいにすれば、たよりない街灯や道路の白線に沿ってどこまでも歩いていけば、これまでに失ったすべてのものにふたたび出会えるような。そんなことは起こり得ないとわかっているけれど、過去から未来まであらゆる時間を内包しているように思われる暗闇は、どれほど愚かな夢想をも許してくれる、ような気がしてしまうのだ。
かつてのわたしは黄昏時を偏愛していた。失ったものたちにもっともたましいが近づく時間帯である、と感じていたからだ。今のわたしは夜がもっとも好きだ。夜はたましいを削るナイフのようでも、たましいを覆うめっきのようでも、たましいそのもののようでもある。そしてなにより、失ったものたちの故郷のようでもある。
札幌から花巻に移住したように、そう遠くない未来、わたしの周囲の環境はふたたび一変する。そうしたらわたしはどの時間帯を好きになるのだろう。からだも、からだの置かれる場所も、たましいも、生きているかぎり変化しつづける。好きな時間帯というのはいつも、影絵のようにそれらの変化を反映し、移ろっていくものであるように思われる。変化も変化を想像することも、いつだってとびきり恐ろしい。しかし、とびきり恐ろしいことは、いつだってとびきり面白いのだ。
この記事を書いた人

永汐れい
1996年生。短歌やエッセイなどを書いています。

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