結局は言葉の海にいる|文・Pokke

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書を書くだけの動物になって

「沈潜」のことを、しばらくの間考えていた。

わたしは大学生で、授業やら課題やらが日々のやるべきこととしてあり、インターン業(月100-150hくらい)があり、それなりに時間が足りないと感じる。まあ、時間のやりくりが上手でないというのも大いにあるのだけれども。隙間時間があれば、連絡のチェックに当てたり、部下が書いた記事を添削したり、大学の課題のテーマをふわふわと考えていたり……足のつかない水位のままにプールの中を進んでいくようで、やりがいはあれど気忙しい。業務は好きでも心身は不思議と疲れてくるもので、いつの間にか床で寝ていて家族にぎょっとされることもある。

大学の課題で、久しぶりに「書道」をした。とはいえ毛筆ではなく、いわゆるペン字である。いろは歌の臨書をした。書道をやっていたのは小学校2年生から高1までなので、じつに4年ぶりくらいだ。わくわくしながら挑んだものの、悲しいことに、全然うまく書けなかった。迷いがあるのがバレバレな曲線、リズムのない膨らみ、伸びすぎた左はらい。そこかしこに羞恥が湧いてくる拙さが悔しかった。こんなに下手だったっけ?

絶望しつつ、しかし久しぶりに「楽しい」と思っていた。ひとりで筆を運んでいた時間は本当に楽しかった。一画一画の表情をどうつくるか考えながら、お手本の文字が書かれたときと同じ呼吸を再現できるように気をつけながら、筆を運んだ。そのうちに、まわりからふっと音がなくなるような、書を書くだけの動物になるような、沈潜があった。久しぶりに地面に足をつけて、まわりの景色をはっきりと見た感覚。書き終えると、文字通り深いところに潜って帰ってきたような、心地よい疲れがあった。

言葉の海はあり続ける

「沈潜」というのは書道に限ることなく、きっと、いろいろなところに存在する感覚だと思う。わたしの記憶にあるものでいえば、ピアノの練習曲を弾くとき、学童でビーズを一心不乱にテグスへと通すとき、本を読むときなどが思い当たる。勉強もそうかもしれない。わたしは定期試験の前になればテキストを平気で3時間でも4時間でも解いていられる子どもだった。そうしたいくつもの沈潜を、思い出すと同時に、いまの生活にはそれが全然なくなってしまったことを思った。悲しくて、少し情けなくて、そこからわたしの沈潜をとりもどす戦いがはじまった。

まずは読書の時間を、意識的に伸ばした。読書をしているときに訪れる集中は”Reading Zone”という立派な名前がついているくらいだ。本を読むのが好きな人なら「書物と自分以外のすべてが消える」ような感覚を味わったことがあるかもしれない。とにかく通学中に、寝る前に、本を読むようにした。桜庭一樹や江國香織、『波』『地上で僕らはつかの間きらめく』のような大切にしている海外の作品、それから和歌集など、好きだと思うものを、手当たり次第に。

……人麿亡くなりにたれど、歌のこととどまれるかな。たとひ時移り事去り、楽しび悲しびゆきかふとも、この歌の文字あるをや。松の葉の散りうせずして、まさきの葛長く伝はり、鳥の跡久しくとどまれらば、ことの心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、いにしへを仰ぎて、今を恋ひざらめかも。

(現代語訳:人麿は亡くなってしまったが、歌の道は今に伝わっていることよ。たとえ時が移り物事が移り変わり、楽しみ悲しみが過ぎ去ってしまうとしても、この歌の文字はあり続けるのだ。青柳の糸のように絶えることなく、松の葉のように散り失せず、まさきの葛のように 長く伝わり、鳥の足跡のように久しく残っているならば、歌のさまをも知り、言葉の本質を理解しているような将来の人は、大空の月を見るように、古を仰ぎ見て、この『古今集』勅撰の成った今を恋い慕わないことがあろうか。)

(角川ソフィア文庫 高田祐彦 訳注『新版 古今和歌集』より)

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古今和歌集の仮名序は高校生の頃から好きな文章だ。リズムのよい出だしに惹かれ、冗長な序詞を追っているうちに、わたしは言葉の蔦のなかへ迷い込んでいく。歌人の悪口を通りすぎ、深く沈潜していたところで、この最後の一文は景色をはっと開かせる。あかるい月影の下に立っている貫之。現代の空とつながった月を見て、すまして微笑んでいる。あとの時代の人々への心憎い仕掛けと、ひれ伏したくなるような言葉の美しさが、厳然とそこにある。何度読んでも、同じようにこの人にやられてしまう。わたしが離れていただけで、言葉の海はしっかりとそこにあり、望めば望むだけの沈潜をくれた。どうして忘れていたんだろう? 懐かしいこの一節に出会ったとき、冗談ではなく泣きそうだった。

言葉の中に沈潜する

「書く」ことも沈潜をくれる。ふだん書くような短編や短歌ももちろん良い時間となるのだけれども、とりわけ沈潜をくれるのは「誰にも見せない文章」だと、この戦いが始まってから気がついた。誰に見せるでもない文章は、たいてい「日記帳」に書く。これは中学生の頃から続いている習慣である。日記と言いつつ、つけるのは大きな出来事があったときや感情が溜まってきたときなので、週に1度くらい。2か月ぶり、なんてこともある。今は無印良品のノートを使っているが、先代のノートはJETの先生とおそろいだったポケモンのノート、その前は友達にもらったプリンセス・ベルのノートだった。ここに、自分の思ったことをつれづれに書く。忘れないうちに前へ前へと筆を進めることもあったり、なにかつかえているものを形にするために数分悩んだりもする。自分が心地いい言葉をさがす時間は、しぜんと心地いいものになる。それは誰のためでもなく、自分が喜ぶかどうかの基準だけで書くことができる。案外、ふだんはそれなりに人の目を気にしているんだということにも、遅れて気がつく。

この文章は最初、その日記帳に書いたものだ。だからいつもより言葉が整っていなくて、わたしの思うままに飛び石を置いているところがきっとある。とはいえ沈潜の時間から出てきた言葉たちだから、おそらくは本当のことばかりで、大切な子どもたちのような気持ちがある。それに、こうして並べて整えながら、記憶をたどりながら、言葉のなかがわたしはいちばん居心地がいいのかもしれないと、認識せざるを得なかった。とても良い意味で。

この記事を書いた人

Pokke

元気な大学生です。詩歌や散文が好きで読んだり書いたりしています。趣味は歌唱。12月の東京文フリで楽しいことをやる予定なので来てくれたら嬉しいです。

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