台湾の東部、太平洋に面し、背後には中央山脈がそびえる場所に、「花蓮」という街がある。山々の優美な自然に、美しい海岸、世界的な大理石の産地でもあり、日本統治時代の面影を残す、台湾有数の観光スポットになっている。

そんな花蓮市の道路に面した一角に、日本の日の丸を掲げたたこ焼き屋「タコヤキヒノマル」がある。その店主・久保勇人さんに今回お話しを伺った。

日本で生まれ育ち、日本の会社で働き、海外へ飛び出した久保さんが、どういう経緯で台湾でたこ焼き屋を開くことになったのか。その思いとは。さらに、たこ焼きだけでなく、イラストレーターとして二面性を持つ久保さんの理想の働き方とは?
日本の社会を飛び出して、海外で自分らしく生きる久保さんに、人生の居心地が良くなる気づきを教えてもらいました。

取材・文:杉浦万丈
「人生1回きり。」浪人時代に、ハーレーの整備士を志す。
⎯まずは、久保さんのバックグランドをお聞かせください。最初はどんなお仕事に就かれたんですか?
久保勇人さん(以下、久保):1985年に母方の実家の愛媛の今治で生まれました。その後、兵庫県の宝塚にすぐに移って、父親が転勤族なのもあって、神奈川、福岡と転々としましたね。小、中、高と進んで、大学に行く際に、あまり気の進まないところしか受からず、浪人をして。
その浪人時に、すごく仲良い友達にベタに「人生1回だよ」と言われたのが、最初の転機です。人生1回きりで俺、何したいんだろうと考えて、「俺、バイクの整備士になりたい」と思ったんです。当時、ハーレーがめちゃくちゃ売れている時期で、ハーレーのメカニックが人手不足でした。ハーレージャパンが自動車整備専門学校と提携してハーレー専攻を作っていたので、そこに入校することにしたんです。
仙台で2年間、ハーレーの勉強をしました。全部教材がハーレーだったので、もうめちゃくちゃ楽しかったですね。同じ趣味の人たちが全国から集まるので、気の合う仲間とたくさん出会えましたよ。
そのあと就職活動で、ある福岡の会社が説明会で「うちの会社はアメリカやけね」と言われたのがなんかかっこいいと思って、福岡に行くことになりました。やっぱりハーレーが好きなのも、アメリカへの憧れがあって。そこから9年、ハーレー専門の整備士をやっていました。
⎯バイクの整備士のお仕事はどうでしたか?
久保:整備士は頭使いながら、体も使うので大変でした。そのうえ、お客さんはバイクではなく人なので、人と接する苦労もあります。ハーレーって高いので、お客さんの層が社長だったり、癖のある人が多かったです。仁義なき戦いな人や夜のお店の社長さんなんかも多くて。一生に一台の高級品でもあるので、神経質になってしまうんですね。
あと、自分でお店を持ちたいと思って整備士になったんですけど、工場長が本当にすごい人で、9年やってもこの人には絶対勝てないと思ってしまった。整備には、こうやって直せば1番いいっていう正解があるんです。「こんなスゴイ人がいるのに、自分のお店をやる理由がない」と思ってしまいました。ただ技術だけでなく、人柄も含めて、工場長のことをとても尊敬していました。
⎯どんなところを尊敬していました?
久保:仕事でバイクさわって、休みでバイクさわって、少し時間があれば調べて考えて、24時間バイクのことを考えているような人でした。その熱量はすごいと思っていました。
今でも工場長に言われた「自分でやりなさい」っていう言葉が残ってます。「できるから、自分でやりなさい」って。元々整備の仕事をする前は、バイクがなんで動くかって謎だらけで、神が作ったものだみたいな感覚だったんです。けど、実際はそんな神技のようなものではなかった。人工物って全部人が作っているんです。人が作っているものなら、俺らも人なんだからできるよねっていうDIYマインドを教えてくれました。工場長は何でも自分でやれる人でした。

⎯「できるから、自分でやりなさい。」とてもいい言葉ですね。そこから、整備士を辞めるのに転機があったんですか?
久保:バイク屋さんで自分の生きる道を見出せなくなってきてからは、自問自答の日々が続きました。けれど、すぐに辞めるほどの勇気はなくて。それで、まずお金を貯めようと思いました。持っていた車もバイクも売って、安いアパートに移り住み、自転車生活にしました。結果、自転車を使ってたことが、ある人との出会いに繋がるんですけど。
あるフランス人との出会いが、仕事を辞めるきっかけになる。
⎯どんな出会いだったんですか?
久保:ある日、とあるハンバーグ屋が美味しいって聞いて、自転車で1時間ぐらいかけて食べに行ったんです。帰りも同じ道は嫌だったので、違う道で帰りました。そしたら、山の中に入っちゃって。スゴイ坂を汗だくで登っていたら、同じように汗だくで自転車を走らせている外国の方を見かけたんです。その後疲れてコンビニで休もうと思ったら、彼もまたそこで休んでいたんです。すると彼がツカツカと歩いてきて急に、
「宇宙にはいくつの分子があると思いますか?」って聞かれて
「えーっと、0ですか?」と言ったら、
「はははっ、無限です」って。
なんだこの人?って驚きました。その後30分くらい一緒におしゃべりしました。
彼はマシューっていうフランス人です。フランスを飛び出して、カナダに留学か旅で行って、そこからアメリカ大陸をぐるっと回り、どうこうしている間に日本人の彼女ができたらしくて。今は福岡の大学に天文学を学びに来たと。電子望遠鏡が山の上にあるので、自転車で見に行ってたとか…。
もうすごい衝撃でしたね。「なんや、その人生って!?」自分との経験値の違いに愕然としました。しかも彼、自分より随分と歳下だったんです。
そこで彼の話を聞いて仕事を辞める決心がついたんです。今まで続けていたやりたいことを後回しにする生活をやめて、やりたいことをやる生活にしようと決意しました。
⎯大きな決断の裏にはやっぱり人の出会いがあるんだなと感じました。偶然の出会いが人生の転機になるんだなと。実際に、仕事を辞めて何をしましたか?
英語が喋れるようになりたいという子供の頃からの夢に向き合おうと思い、留学することにしました。当時、フィリピン留学が流行っていて、コレだ!と思い、フィリピンの語学学校に行くことにしました。
海外に出て、全部がカルチャーショックだった。
久保:まず6ヶ月フィリピンで留学しました。当時、6か月勉強したら話せるようになると言われていたので。仕事辞めて、日本飛び出して、フィリピンに来て、もう最高に楽しかった。全部がカルチャーショックで。フィリピンの人は楽観的で、みんな笑ってて、歌ってて、ピースフルで。みんなお金ないんですけど、毎日楽しそうだった。日中ずっと英語の勉強して、夜はみんなで街に飲みに行って。フィリピンのご飯は本当に美味しかったです。ジャンキーで脂っこくて、酸っぱくて、甘くて、しょっぱい。
実際に行ってみると、6ヶ月でネイティブになれるというのは幻想でした。リスニングは難しく、今でも聞き取れない場面はあります。でも「あなたの言いたいことはこういうこと?」と聞き返せるようになって、意思疎通ができるようになりました。
それから、オーストラリアに行くことになります。当時30歳で、ワーキングホリデーをするにはギリギリでした。セカンドビザを取るためには、オーストラリアの地方の辺鄙な土地の国が定めたファームで働いて、就労日数を稼がないといけなかった。それで、オーストラリアのケアンズのちょっと下のエアーっていう街、そこから100キロ離れたサンダルウッドファームっていうところに行くことになりました。
⎯全く知らない場所での、辺鄙な土地。勇気がいりますね。
久保:そうですね。一人で飛行機でタウンズビルってとこまで行って1泊して、次の日にバスに乗ってエアーまで行くんですけど、人が誰もいないようなエアーのバス停に着いて待っていたら、韓国人が一人来て。僕のイメージは白人バリバリのオーストラリア人のデカ親父が来ると思ったら、めっちゃごりごりのメガネ韓国人が来て。それから、ランクルの後ろに乗せられて、1時間半くらい何もない暗い道走って、アコモデーションに着きました。2段ベットがバーっと並んでいるようなところで、ここがお前のベットだみたいな。結局、就労日数稼げる半年ぐらいいました。
働いている人の半分以上が韓国人でした。韓国人のリーダーに「水飲むな、歩けほら」って言われながら働いて、軍隊かと思いましたね…。仕事は香水に使われるサンダルウッドっていう香木があるんですけど。そこで、苗を植えたり、農薬撒いたり、雑草を抜いたり。「こんなのはオーストラリアじゃない!」って思いながら、過ごしてたんですけど、結局楽しかったですね。
⎯楽しかったんですか…。
久保:仕事自体は、辛かったんですけど、同じ境遇の仲間がいるのは良かったですね。終わったらすぐシャワー浴びて、ビール飲んで。その時も英語に意識高い人がいたので、一緒に勉強したり、英語しか喋っちゃいけない時間作ったり。1週間に1度、片道1時間かけて街に出て、食材を買いに行くんです。なんだかんだいい思い出で、バーベキューなんかも最高でした。
自分の好きなことは、「つくる」ことだった。
⎯セカンドビザを取った後は何をしたんですか?
久保:セカンドビザを取った後は、まだ見ぬ第二の故郷を探して、ブリスベン、ゴールドコースト、アデレードと転々としました。アデレードで、WWOOF(ウーフ)というボランティアのシステムが英語の勉強にいいよということで、活用することにしました。WWOOFとは、小規模有機農家で労働をすることで、対価として食事と寝るところを提供してもらえるっていうシステムです。家族の一員になるような体験が英語学習にいいと聞いたんです。結果、人生観が変わるきっかけになりました。
受け入れてくれた農家さんは、アデレードの外れの丘を一個持っているようなお家で、その家主さんの半自給自足の生活に強い衝撃を受けたんです。ストローベイルハウスっていう藁の家を自分で作り、電気もDIYして、雨水を使って生活していました。野菜育てたり、フルーツ育てたり、鶏を飼って、卵を産ませたり。すごくいい人で、ベイルハウスに興味を持つ自分にいろんなことを教えてくれました。
そこで「生活って作るもんだな」って気づいたんです。日本で生活しているときには、仕事に追われて気づけなかったこと。振り返ってみると、テーブル作ったり、バイク作ったり、服作ったりしていて、「自分が好きなことって、作ることだ」って気づきました。古いレインコートや皮のブーツとか、1つの物を大切に使い続けるというのもすごくいいなと思いました。自分もいつか暮らしを作りたいと思いましたね。
それも整備士時代に学んだ「なんでも自分でやりなさい」って言葉とリンクしていて、今の自分になっています。

人生で一番綺麗な景色を見た、ビューティーポイント。
⎯そこで「自分でやりなさい」に繋がってくるんですね。本当にやりたいことって、経験があって、見えてくるものだと感じました。その後はどうしたんですか?
この後どうしようかと考えるタイミングで、WWOOFの家主さんご夫婦がメルボルンの息子さんに会いにいくというので、一緒に車にのせてもらうことにしました。メルボルンでは初めてキッチンの仕事を経験しました。日本食レストランだったのですが、一緒に働いていた外国人たちはみんな日本が好きで居心地が良かったです。そこで妻とも出会いました。半年ほどメルボルンにいました。
その後は、タスマニアのイチゴの収穫の仕事をしに、今の妻と自分ともう一人の友人と一緒に行くことになります。フィリピン語学学校時代の友人がタスマニアのファームがいいと言っていて、自分が経験した軍隊式のファームとかけ離れている感じがして、確かめたくなったんです。
そこがビューティーポイントってところだったんですけど、僕の人生で一番綺麗だと思える場所でした。名前に劣らない絵画のようなところ。ファームの仕事は朝が早くて、朝焼けとともにバスで農場に向かうんですが、薄靄の中、大きく広がった川にとまっている黒いシルエットのヨットに、所々でオレンジに光る水面を丘の上から見て、毎朝「スゲー!!」って感動していました。
ビューティーポイントを出た後、一度日本に帰り、また海外に出ることになります。当時、日本でチキンとビールのお店を開こうと計画していました。
⎯まだまだたこ焼き屋に辿り着くのは遠そうですね。

後編へ続く。

取材・文:杉浦万丈
画像は久保勇人さんに提供していただきました。

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