序章:「真面目すぎてどう接したらいいかわからない」
「真面目すぎてどう接したらいいかわからない」
これは、僕が前の職場の先輩に言われた言葉だ。埃とカビが肩を組んで宴をしていそうな「教材室」の端で、当時(今でも)尊敬していた先輩から。2020年2月。高校教師へと転身して1年弱。僕を長年襲い続けてきた苦しみに効きすぎる激辛スパイスだった。
いつからだろう。人に自分をさらけ出すのが怖くなってしまった。飲み会で、冗談を言うことができない。冗談を言われても、うまく返せない。「軽口のラリー」を続けることができない。きっかけは色々あったと思う。身体はデカイが気は弱い。それを見抜いた人からの、僕の発言に対するダメ出し・否定。
「いや、それは違うでしょ」
「は?」
「いや、意味わかんない」
こういった「否定のつっこみ言葉」を冷たく言い放たられることが多々あった。いつからだろう。中学生?いや、幼稚園の時から?そもそも、生まれる前から?僕は「悪意のサンドバッグ」としてこの世に生まれ落ちたのだろうか?日々悩み、1人で勝手に悲しくなる毎日だった。
そんなの思い込みだよ、と言ってくれる人もたくさんいるだろう。でも、残念ながらそうではない。実際、飲み会などで僕に対してだけ態度を変える人がいたりする。僕に対しては、極めて事務的な口調。だけど、他の、ノリが良い人に対してはおどけた話をする。「田中さーん、何言ってんすかー?」みたいな返しをしたりする。結果、場は盛り上がる。負けじと、僕も面白いことを言おうとする。言ってみる。すると、場の空気が変な感じになる。何度も、そういった経験をする。「田中さん」に対しておちゃらけた反応をしていた人は、苦笑いを浮かべるだけだった。
気が付けば、飲み会の誘いを受けるより断ることの方が多くなっていた。
さらなる序章:「冗談」という呪いの言葉
「冗談が通じない」とよく言われてきた。それとセットで「あだむさんは真面目なんだからー」とも言われてきた。
最近は、ようやく冗談を冗談として受け入れられるようになってきた。でも、まだまだだと思う。先日も、職場でこんなやりとりがあった。
僕「木下先生、お話中すみません、よろしいでしょうか?」
木下「あだむ先生か。ちょうど今、先生の悪口を言ってたところ(笑)」
僕「えぇーー(笑)」
もちろん、僕はそれが冗談であることをわかっていた。木下先生とはお互い信頼しあって仕事をする仲だ(と僕は勝手に思ってる)。でも、木下先生には伝わらなかったらしい。その後、先生は
木下「あぁ、冗談冗談。あだむ先生真面目なんだから」
と言ってきた。こういうことが、生きていて、何度もあった。そして、真面目という言葉が大嫌いになった。ついでに、優しいって言葉も、大嫌いになってしまった。辞書の該当ページを引きちぎってやりたい。昔から、「あだむは優しい」と言われてきた。でも、それは優しさじゃない。自分を守るための盾だ。私利私欲にまみれ脂ぎった盾だ。人に対して強く出ることができない自分を飾る偽りの優しさだ。
思えば、僕は自分を守ることで精一杯だった。幼稚園では、同級生。小学校では、中学受験のライバルと当時の担任教師。中学校では、再び同級生。高校では、部活の顧問教師と先輩。大学では、サークルの同期と、周りのキラキラした学生たち……僕には、怖いものがたくさんあった。それらから自分を守るため、優しくならざるを得なかった。
だから、僕の真面目さも、優しさも、嫌いだ。大嫌いだ。
でも。それでも。そんな自分を愛してみよう。受け入れてみよう。そう思えるようになってきた。「銀の裏地」を見つけるに至った出来事を、紹介したいと思う。はい、序章ここまでー!(冗談っぽく笑)
先輩がこっそり打ち明けてくれたこと
12月。寒さが増した、金曜日の夜。僕は降りたことはおろか、聞いたことさえなかった駅に降り立った。前の職場……今の学校に異動するまでの5年間、生徒と苦楽を共にしながら勤務した学校の、英語科の先生だけが集まる忘年会。僕はゲストとして呼ばれていた。埃まみれの教材室の匂いが漂ってきやしないか、なんて冗談を自分で考え自分で微笑み、居酒屋へ向かった。お世話になった先生方との再会を楽しんでいたら、あっという間にお開きに。行ける人だけで2次会に、という流れになり、手頃なブリティッシュパブへ。僕の目の前に座ったのは、今でも、そしてこれからもずっと尊敬し続けるであろう先輩教師。
「どうよ、今の学校。特別支援学校だっけ」
「いやー、大変だけど楽しいです。生徒はみんな可愛くて」
「すげぇな…いや、ほんとすごいよ」
それから、先輩は声をひそめて、僕に言った。今の公教育で最もやりがいがあるのは、定時制課程や特別支援学校に通うような子供たちとじっくり向き合うということ。それをあえて避ける教員が多い中、その道に進んだ僕に惜しみない拍手を送りたいということ。そして、
「多分、俺の子供も、そうなんだよ」
ひそめた声をさらに小さくして、先輩は打ち明けてくれた。正式な診断をされたわけではない。だけど、保育園での様子や家での行動を見ている限り、間違いなくそうだ。もうすぐ小学校にあがるのだけれど、支援級にするか、支援学校にするか、奥様と話し合いを続けている。そう話してくれた。
僕は、その話を聞きながら、思った。あれ、もしかして僕が真面目だから打ち明けてくれてる?と。思い返せば、人から相談事をされることが多い人生ではあった。僕は真面目さゆえか、人の話を最後までじーっと聞いてしまう癖がある。合いの手さえも挟まず、とにかくじーっと、山のように。もしかしたら、それが功を奏している?そう感じた。
聞き役に徹するのは決して楽なことではない。何分も何時間も話をしていると、頭がぼーっとしてくる。足がむず痒くなる。でも、思う存分話をしてくれた(ぶちまけた?)相手の顔を見ると、僕は小さな喜びを感じる。面白いことを言えないつまらない僕に話をしてくれてありがとう、と思ってしまう。これって、偽りの盾で自分を守ってるだけなのかな?いや、本当の優しさだ、きっと。ポジティブな真面目さと強い優しさだ。そう思えている自分がいた。真面目さと優しさが他の人を救う?それは言い過ぎ?それくらい言わせろよ。
2次会が終わり、先輩は妻子が待つ家へ。僕は、せっかく知らない街に来たのだからと、終電に差し支えない程度に、夜の散歩を楽しむことに。歩きながら、4年前、先輩に言われた言葉を思い出していた。
「真面目すぎてどう接したらいいかわからない」
言われた当時は確かにショックだった。でも、今思い返せば、先輩は僕を否定してはいなかった。「どう接していいかわからない」というのは、裏を返せば、「真面目な僕を壊さないように」する、先輩の心遣いだったのだろう。歩きながら、そう思った。そして、これは余談であるが、中堅進学校から特別支援学校への異動という特殊な道(現役教師の大半が目を丸くする)選んだ僕を肯定してくれたことに、深く深く感謝した。

「低刺激」な僕
僕が勤務する特別支援学校には、教員へのアドバイザーとして、大学の先生や心理士の方々など、その道のプロフェッショナルたちが多数来校する。事前に予約をして、クラスや特定の生徒を観察していただき、放課後に、その生徒の障害特性や教員の支援方法についてのフィードバックをもらえる。初の特別支援学校で楽しみながらも四苦八苦する僕は、その制度の恩恵にあずかっていた。その日も、とある大学の先生に、重度の自閉症を患う僕のクラスの生徒を観察していただいていた。放課後、その先生と、こんな会話を交わした。
「あだむ先生は普通校からいらっしゃったんですか?」
「はい……全然慣れませんが」
「いやぁ、でも先生、特支に馴染んでますよ」
「そうですか?」
「はい、先生、低刺激ですよね」
その先生曰く、僕から発する刺激がとても低いとのこと。それは実はメリットだらけで、特に障害を持つ生徒を相手にする際、大きな武器になるとのこと。
僕は「優しい教師」だ。これだけは自他共に認めてしまう。声を荒げて生徒を叱ることはない。(理不尽に近い形で)生徒を手痛く指導することもない(よほどのことが起こればそれはまた別の話だが)。まず、生徒の言い分をしっかり聞く。怠惰による遅刻や課題未提出など、救いようのないことをした生徒に対しても、同様に。そして、言い分を聞いた後は、同じことを繰り返さないためにどうすればいいかを一緒に考える。生徒指導をする上で特に意識したのはこれだ。過去のことを責め立てても仕方がない。教師が生徒に提供できるのは常に「未来」なのだ。それを念頭に置いていた。
昨年まで働いていた中堅進学校。生徒との距離をなかなか縮められずに苦労した。生徒が行事で盛り上がる中、僕は生徒の輪から離れたところで、生徒を見守るだけだった。「若いんだから、生徒と一緒に盛り上がらないと」と年配の教師に言われたが、「そうですよね」と返すだけで僕は何もしなかった。いや、できなかった。担任業務にやりがいを感じられなくなる時もあった。
だが、生徒が高校3年生になって、事情が変わった。進路に悩む生徒からの相談をひっきりなしに受けた。夏休み、生徒1人1人とたくさん話をした。保護者からの学校評価アンケートに、「担任の先生には、子供の話を親身に聞いてくださって、本当に感謝しています」と書かれていた時は、至福の輝きに包まれた。
低刺激だったからかな。今、僕はそう思う。だから、生徒から見て「相談しやすい教師」になれたのかな、と自画自賛してみる。そして、新卒入社の僕を育てようとしてくれた会社を辞めてまで選んだ「教職」での最大の武器を手に入れられた僕は、きっと幸せ者なんだ。「低刺激」という武器を作ってくれた僕の真面目さと、優しさに感謝だ。
「真面目」な自分を愛したっていいんじゃないか
真面目であること。冗談が通じないこと。人に対して優しくしてしまうこと。これらは全て、大きな武器なると思う。もちろんそのせいで、人よりちょっと、傷つくことが多い人生にはなるかもしれない。
でも、それで救われる人が確実にいる。
「真面目」な自分を愛したっていいんじゃないか。
自分の人生で、1人でも誰かを救えたのだとしたら、それはまぎれもない「ワンダフル」な人生だと思うから。

この記事を書いた人

あだむ
2年間のサラリーマン生活を経て、高校教師として働いています。専門科目は英語。今年は特別支援学校で経験を積んでいます。
小説・短歌・散歩・献血が大好き。献血ルーム全国制覇を密かに目指しています。東京ヤクルトスワローズ優勝祈願中。

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