喫茶店に行くこと
喫茶店はたいてい1人で行く。
すみっこの席で、知らない人の話を小耳に挟みながらぼーっと過ごす時間がふと欲しくなる。いつも突然で、人を誘っているひまはない。
そもそも喫茶店をすきになったきっかけは、転職活動の束の間の癒しという部分が大きかったと思う。知らない街に着慣れないスーツで行く。自分でも笑ってしまうような自分のいいところを一生懸命アピールする。変な質問に笑顔で答え、エレベーターが閉まるまでペコペコする。
その一連の虚像を終えたあとの虚無を埋めてくれたのが喫茶店のほどよい距離感だった。どうして喫茶店を選んだのかは今となってはわからない。けれど、きっといろんなものがからっぽで、何かで満たしたくて、そのときに注ぎ込まれたコーヒーがあたたかくて沁みたのだと思う。
面接に行くことが決まったときは、その駅にある喫茶店を必ず探して、そこに行くのをたのしみに準備をしていた。
走馬灯の商店街まで
その日、面接は全然うまくいかなかった。
中盤からあまりにも私に興味と期待がないことがわかって、最後の質疑応答では半ばやけくそにこのあたりでおすすめの喫茶店を聞いた。半笑いでなにか教えてくれたような気がするけど、行きたいお店はもう調べてあるのだ。あなたが教えてくれたところで行くつもりはありませんけどね……と心の中で精一杯の悪態をつく。 笑顔で。
時間は13時過ぎ。4人の面接官にぬるく見送られて、エレベーターが閉まった瞬間にGoogleマップをひらいた。
目当ての喫茶店は、調べたとおりの喫茶店らしい喫茶店で、心躍った。入ってすぐ、タバコの香りが鼻をつく。今は珍しくなってしまった全席喫煙可のお店だった。
なんだか嬉しくてしょうがなかった。とにかく「真面目ではみださない志願者」のラベルを剥がしてしまいたかったから。「お好きなお席にどうぞ」と言われてすみっこの席に決めた私は、無意識に、そしてすみやかにスーツのジャケットを剥がした。
この時間は特に、お客さんが社会と関係ない顔をしていて好い。薄暗い店内。競馬新聞を読むおじさんや静かにレシートをまとめているおねえさんに囲まれて、ここはちゃんとわたしの居場所なんだなと思う。他人のような顔をしながら必然として出会っているはずの、近くて遠いわたしたち。
先ほど頼んだトーストと珈琲が運ばれて来る。おいしい香りをまとうものが机に置かれると、居場所の証明のようでいっそううれしい。酸味のある珈琲と牡蠣のトーストを交互に味わっていけば、さきほどの面接のもやもやが風に吹かれた砂のように消えていった。

その後、残念ながら喫茶店は閉店してしまった。お店の実体がなくなったいま、あの喫茶店はわたしが最後に通るであろう走馬灯の商店街で営業を続けている。

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喫茶店がすき。短歌をよんでいます。

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