私の日常
朝7時。うるさい目覚ましに瞼をこじ開けられ、1日が始まる。前日の疲労が余韻を引きずったままの身体を、布団からメリメリと引き剥がす。ふらふらしながら洗面所へ行き、歯磨きをして、冷たい水で顔を洗う。眠気も一緒に水に流れ、多少は良くなる。髪を整える。だいたいいつも前髪が思い通りにいかない。ある程度で諦めて、部屋に戻り着替える。仕事用の服に着替えると、心が仕事ver.の心に形成されていく気がする。ベースとアイブローだけのメイクをする。濃くて周りにとやかく言われるのも嫌だし、何より朝は時間がない。ので、朝ごはんも食べない。そんな時間があるなら寝ていたかった。荷物を持って、急いで車に乗る。片道45分の道のり。この時間は必ず好きなバンドの曲を聴く。職場へ向かう時間は、ごきげんな自分がいい。
始業開始ギリギリに席に着く。瞬く間に午前中が終わる。昼食が至福の時間だ。職場に来るお弁当やさんでたまに買って食べる。昼休みもあっという間に終わり、午後の業務。瞬く間に17時。終業時間だ。と言っても仕事は終わらない。仕事に終わりなんて存在しない。寝る時間を惜しんで働く。そうしないと心が休まらない。心が休まらないと身体も休まらない。ある程度、気が済むまで、パソコンと戦う。ある程度、気が済むまで。気が済むまでできたら、同じく残っていた数人の同僚と、職場の門を閉めて帰る。たまに夜ご飯を一緒に食べに行く。この時間が結構好きだった。
家に着く頃にはもう家族は眠っている(筆者は実家に住んでいる。ひとり暮らしをしたいのだけど、職場に通えちゃう距離だし、なにより金がない)ので、なるべく物音を立てないように家に侵入する。同僚と夜ご飯を食べていなければ、ひとりダイニングのちいさい灯りをぽっと付けて、残しておいてくれていた夜ご飯をラップをめくって食べる。そしてお風呂に入って布団に横たわる頃にはもう日付はとうに変わっている。ここまで出来れば上出来だが、家について自室へ戻り、そのまま布団に倒れ込んでほぼ気絶したように朝まで眠ってしまう時期もあった。そんな時の絶望と言ったら。夜中目が覚め、絶望し、いつもより早めにアラームをかけて(翌朝シャワーを浴びるため)またすぐに眠りの世界に引きずり込まれる………そして、数時間後にまた目覚ましに瞼をこじ開けられ、疲労の余韻が残ったままの身体を布団から引き剥がすはめになるのだ。
と、ざっと書いてみたがこれが私の日常です。これが月から金まで続く。1週間なんて本当にあっという間だった。だから1ヶ月もあっという間だった。仕事の繁忙期・閑散期によって多少は良くなる時期もあるが、最も忙しかった時期は、このような生活。
別人になる非日常
このような生活をしていても、私が今ここにいる理由は、“5日間を乗り切れば必ず土日が待っている”からだった。休日が待っているというのは最強なのである。土日には職場のことや仕事から一切離れて、自分が楽しいと思うことだけをする。家族には本当に申し訳ないと思っているけれど、そうしないと平日との心身のバランスが保てそうになかった。いろんな場所に行っていろんな体験をして、いろんな気持ちになるのが好きだから、土日だけでもそういう気持ちを思い出していたかった。これが私の非日常である。
しかし、社会人になって最初の1年目は、この日常と非日常の寒暖差に自分でもなかなかついていけなかった。日常という時間が流れる世界と、非日常という時間が流れる世界。そしてそれぞれの世界で起こる感情の動き。それが全部別物で、でもどちらもちゃんと存在していて、日常を過ごす自分と非日常を過ごす自分は、まるで全くの別人だった。
こういうことに違和感を覚えたし、このままでいいのだろうか、と不安にもなった。
社会人2年目になり、仕事もなんとなく分かってきて去年よりは気持ちに余裕が出てきた頃だったが、新しく取り組む仕事が増え、仕事量が莫大に増加した。それで冒頭に書いたような生活をほぼ毎日、送る時期があったのである。その頃からだろうか、日常と非日常の寒暖差についていけないと悩んでいた自分はいなくなった。むしろ、平日に自分の自由な時間なんてほんとうになかったので、土日に東京に行ったり好きなバンドのライブに行ったり1泊2日で旅行をしたりするくらいでないと、やって行けなかった。そのくらい平日と土日にギャップがあったほうがよかった。美しい作品や、そこで出会うパッショナブルな人、好きな音楽や、美味しいもの、そういった非日常感が私の心を支えてくれた。
海は絶対に諦めない
大学4年3月、働き始める以前から「仕事辞めたい」と言っていた私も、社会人になって3年目になる。1年前と比べると、仕事を好きになることができていたが、一年ごとに行われる人事異動により自分の周囲の環境が変わったことで、何かと不安定な日々を送っていた。3年目と言っても、3年目は3年目なりに新しく取り組む仕事もあり、クリアすべきミッションも立ち構えていた。そういうものに対して、どう向き合っていくべきなのか、自分のやり方は合っているのかどうか、自信が持てなくなった時期があった。今思えばかなり心に負担を抱えていたのだと思うが、6月のある日、無性に海に行きたくなった時があった。海に行きたくてしょうがなかった。
実は、私の職場から歩いて5分ほどのところに海があるのだ。数週間ほど前に、上司が仕事の都合で海に行くということで、私も頼まれて着いて行ったことがあった。3年間同じ職場で働いていながら、海に行くのはこの時が初めてだった。いつも職場の窓から眺めていた海。その日の天気によって見せる表情が明確に変化する海を、眺めているのが好きだった。でも今は、もっと海の近くに行きたい、あの景色を間近で見たい、と強く思った。時間が経過するごとにその気持ちは大きくなっていった。
17時になった。他の人は、ひとり、ふたり、と退勤していく。人がかなり少なくなった頃、私はひとり海に向かった。どうせ今日も残業確定である。だからその前に、海に行きたい。そして心を入れ替えたい。興奮と焦燥感を抱えながら、足早に海に急ぐ。歩道を歩いていると、石畳の端の方に、もう砂浜が滲み出していた。もうすぐ海だ。歩道から松林に入ると砂浜の道が続いている。幾人が今まで歩いて来たであろう砂浜の道には、夕日が差して陰影のある彫刻のような造形が波のようだった。ズモッ、ズモッ、と足が埋まるが、仕事用の靴の中に砂が入り込んでくるのも、もう、構わない。波が崩れる音がする。生ぬるい潮風は、生臭いにおいがする。海はもう、すぐそこだった。
松林を抜けると、大海原が広がっていた。大きな海だった。大きな波だった。波打ち際まで息を切らしながら歩いた。波に濡れないようにギリギリのところに腰を下ろす。夕方と昼の空が混じり合った美しい色が、波に映えていた。波は、寄せては、地球をめくるように大きく持ち上がり、耐えきれなくなって、大きく崩れる。そして静かに引いていっては、また地球をめくるように持ち上がりこちらに向かってきては、崩れる。そういう波の様子をずっと見ていた。ずっと海を見ているうちに、なんだかどうしようもなく切なくなってしまった。海は、誰にも見られていなくても、ずっとこうしているんだよな。私が寝ている時も、仕事をしている時も、真夜中も、ひとりでずっと同じ動作を繰り返している。こんなに大きくても、全世界と繋がっていても、海はきっとひとりぼっちだ、と思った。とても寂しく感じた。しかし、海は諦めない。絶対に諦めないし、止まることを知らない。届かないとわかっていても、絶対に動きを止めない。信念のようだな、と思った。人知れず内側に隠し持っている、燃え盛る、確固たる信念だった。

日常の中に煌めく、非日常を見つけて
どのくらい眺めていたのか、もう日が落ちそうなのでさすがに帰ることにした。じゃあね、と心の中でそっと呟く。砂をはらい、砂浜の道を戻る。ズモッ、ズモッ、と松林の中を行く。ふと前を見ると、歩道の石畳が見える所まできていた。石畳に足をついた、途端、ぐわんと体が前にのめり、片足に体重がぐっとかかる。砂浜から押し出されたようなその感覚は、まるで映画やアニメなどでよくある、“異世界から日常へ帰る時に通る不思議な出入口”を通った時の感覚と、おそらく同じだった。でもまさに、今見てきた世界は異世界だった。こんな近くに、日常から離れられる異世界が、あったなんて。と、そんなことを考えながら職場に戻り、自分の席についた。すると、嗅いだことのあるいい香りが、私の近くで、ふと、香った。あまりに突然のことだったので、どこから香っているのか分からなかったが、それは私の腕からだった。肘より下のあたりを嗅ぐと、確かにその匂いがする。懐かしい香り。どこかで嗅いだことがある香りだ。そうだ、ヘリオトロープだ。オフィシーヌユニヴェルセルビュリーの、ヘリオトロープの香水の香りだ。でも私はその香水を持っていないし、その香りが体に付くようなことをしていないのに。では、なぜ……?
とても不思議だが、とても素敵な体験だった。だから残しておきたい、と思い、たまに趣味で短歌を詠んでいるので、短歌の形にして残すことにした。

私は普段から短歌を数多く詠める方ではなく、心にじんわり広がる感動があった時に頭が短歌モードになる。そういうモードになっている時こそ、心も体もリラックスして、本来の自分の姿が浮かびあがる気がする。これは一種のカタルシスだ。だから、普段からなるべくそういうモードになっていたいのだけど、上に書いたような日常を過ごしているとなかなかそういうモードにはなれない。だから、心身ともに疲弊している時期に短歌を詠めたのは個人的にかなり珍しいことだったし、嬉しかった。
日常があるからこそ、非日常を楽しめるし、非日常があるからこそ、日常を生き抜くことができる。日常も、非日常も、きっとどっちも大切なものだ。そして、さらに大事なのは日常と非日常のバランスで、そのバランスによって、私の心の居心地の良さは保たれているのだと思う。日常のなかに、隠れていたり、滲んでいたり、ふと見つける非日常。それを見つけられるかどうかにも、生活の居心地の良さは左右されると思う。どんなにちいさな事でもいい、日常の中にどれだけちいさな幸せを感じられるか。そういう煌めきを見つけられる人でありたい。
この記事を書いた人

朝
ちょっとがんこで乙女な限界社会人。ときどき歌人。
言葉と邦ロックをこよなく愛している。
noteで日記を書いている。note↓

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