
線路沿いにある家で育った。成人になるまで埼玉の南浦和駅近くのマンションに住んでいて、部屋から京浜東北線が見えた。赤ちゃんだった頃、泣きじゃくる私は外へと連れ出され、電車が走る音を耳にした途端に泣きやんだらしい。
今はその地を離れ、自宅から電車の存在をはっきり感じることはない。けれど、ベッドと壁の隙間に耳をそばだてると、地下鉄が走る「タンタン…タンタン…」という音が聞こえることがある。電車のもつ何かに心を鎮められているのか、いまでも幼少期と地続きなのであった。
勤めていた会社を辞め、約1年無職だった時のこと。
今後のことは何も決まっていなかった。
人生の方向性を、今、決めなければ。10年先へと続く道があるなら、もうそこを歩き始めていなければならない。自分が心から望む場所に行く、もしくはそういう場をつくる。そのためには時間が必要だと考えていた。
すべてを決められる。どこへでも行ける。だからこそ、不安になった。何にも縛られない時間。せっかく手に入れた自由。どうやら大きすぎる自由は、扱うのにも技量が要るらしい。そんなこと、誰も教えてくれないのが人生だ。気づいた時には、何もかもが滞り始めていた。
気分転換にテレビの番組表を漁り、『ヨーロッパ トラムの旅』というNHKの深夜番組を見つけた。オーストリア・ウィーン、ハンガリー・ブダペスト、オランダ・アムステルダム、チェコ・プラハといった、欧州の風景がテーマの60分番組。録画を溜め、食事中や家事をしながらの時間に観ることにした。

ヨーロッパの都市を走る路面電車『トラム』は、日本のそれよりもさらにコンパクトな印象だ。線路と歩道が隔たることなく行き交う人と共存し、シームレスに街に溶け込んでいるように見える。
絵画のような街並みが次々と広がる映像に息をのむ。歴史的な西洋建築、煌々とした大聖堂、建物に囲まれた路地裏、シンボリックな時計台。海外を訪れたことのない私にはどれも刺激的だ。

運転席からのカメラワークは、さらに没入感があっていい。ゆっくり発進し、ゆっくり走り、ゆっくり停止する。旅特有のまったりとした時空がそこにあり、まだ見ぬ土地の風の匂いを想像したくなる。
世界各国を紹介する有名な番組『世界の車窓から』と異なり、『ヨーロッパ トラムの旅』には人々の会話やナレーションがない。聞こえるのは環境音と、ピアノやギターのBGMのみ。延々と景色が移りゆくだけで、見ても見ていなくてもどちらでもいい緩さが、ながら見にちょうどいい。

同じくNHKに『運転席からの風景』という番組がある。不定期の放送のようだが、武蔵野線の特集回を見つけたので観てみた。府中本町から西船橋まで、東京・埼玉・千葉をつなぐ路線だ。南浦和駅にも武蔵野線が通っており、何度か利用したことがある。
運転手目線のアングルで電車が走り出した。出発時のふわっと動き出す瞬間が好きだ。まっすぐに伸びる線路、住宅街や学校、商業施設、水田、工業地域ーーあらゆる景色を横目にしつつ澄みきった空を裂く爽快感に、身体じゅうの空気が入れ替わるように思える。

悩んでいると、ついもやもやした感情を心の中で反芻してしまいがちである。そんな時、ぐんぐん進む車窓の景色を見つめていると、今いる場所からぽんと押し出される感覚になる。そこに理屈なんてないけれど、滞っていたものが取れ、凛とした心持ちになれる気がする。
以前に観た『しくじり先生』の番組で、とある女性タレントが出演していた回を思い出す。彼女は並外れて優秀なキャリアウーマンでありながら、生きることには少し不器用らしかった。常に効率を求めてきた人生で、暇ができてもぼーっとしたり、純粋に物事を楽しむのが難しいのだそうだ。完璧な人でも、悩むことがあるんだなぁ。
そんな生き様を知った共演者が突然「寝台列車とかに行くのがいいんじゃないですか?」と口にした。そして、こう続けた。
「何もしなくても『わたし、進んでる!』って思えるから。」
その瞬間、その場にいた全員がはっとした。それは私にとっても新鮮な響きとして残った言葉だった。
なぜだか調子が出ない日。
なんにもしたくない日。
どうしようもなく、どうしようもない日。
そんな時にはテレビをつけて、わが家の車窓から移りゆく景色を眺める。
大丈夫。進んでる。ちょっとずつ。
(写真引用元)
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葉山あも
短歌をつくるひと|コピーライター。日夜ことばを軸としたアイデアを温めています。あたらしくてあたたかいものが好き。古民家カフェとツンデレに弱い。

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